そうするよ・・・

父が逝きました。

私の乗る車のナンバーには必ず反応してくれましたが、なんと午後11:22分・・・

そろえてきましたか・・・💦

四十九日までは修業をするのだとか・・・

でも・・・どうしてもその姿は想像できないのです。

逆に説教して旅しているのでは(^_^;)

 

器の大きな人でした。

「そうだったんだ・・・」というようなことをいくつか知ることに・・・

弟妹を助けてきた・・・

(一番大きいエピソードは知りませんでした。)

 

「酸素ボンベを背負って、またグランドゴルフをやってやる・・・」

「(病変を)残しておくという選択肢はあり得ないよ・・・」

それらの言葉に本当に助けられました。

 

まだほんのさわりだけですが、片づけていると思わず笑ってしまうことが続くのです。

「これを集めるか・・・」

(本当にユーモアの人・・・)

私は器の大きさとユーモアに気付かず、父の知見やしつけを自分も子供たちに与えなければと思ったのが間違いでした。

 

物がいっぱいあるけど、整理されているからか散らかっているとは感じない・・・

(我、断捨離すべし・・・)

 

いつからだったのでしょう(病変が見つかってから?)

父と話すときの私への入り方が変わっていった・・・

父の話し方がいつもとそんなに違っているわけではなかったので・・・(こちらが変わった?)

 

父が高校を卒業するときの話は初めてでした。

自分の父親が亡くなり、弟妹も多く余裕がなかったので学校には行かなくなったとのこと・・・

(人に助けてもらった・・・というような話を父から聞いたのは初めてだったかもしれません。)

先生や友人たちのサポートで、通学を再開し卒業できた・・・

休学中の内容はできなかったが、再開後の範囲の試験は1位だった・・・

まあこれがいつもの流れなのですが、その時は嫌悪感を覚えませんでした。

 

「お父さんは、一度読むとそのページはすぐ覚えちゃう人だった?」

気が付いたらすっと訊いていました。それを父も感じたからでしょうか、今までにない感じの答え方でした。

「そうだな。そうだったな・・・」

やっぱり・・・そうでなければ説明がつかないことがいくつかあったので。

例えば、父はJR、いや国鉄の駅名をほぼ全部覚えていたようです。

(手術に向けて一日に8000歩は歩くように・・・)

そのような課題にも駅名を唱えながら、時には1万歩をカウンターに刻んだようです。

 

手術の日に病院についた後、

(さあ、どれくらい待つことになるか・・・でも、なんで母はここに居ないのか・・・)

母が家族の控室に入ってきたのは、なんと主治医から手術についての説明を終えたあとだったのです。それも、根治術がちゃんと行われていました。

術直後のICUで父が、

「(私の名前)か!分かるぞ!」と大きな声で言いながら握ってくれた握手の強さを私は一生忘れないでしょう。そもそも人にこれだけ強く手を握られたのはほとんど初めて?

 

長い入院で意識を保つのが難しくなっていたようですが、家に戻ってきた父は自分を取り戻しました。

「パソコンはどこにやった!何でも持っていくな・・・」それは、ちゃんとした記憶の下に出された声でした。

セッティングすると、さっそくふるさと納税のページで何やら探し始めていました・・・

でも、両親と入院する前と同じような会話をすることができました。

 

この3~4カ月で、その前の5年分くらい実家や病院と往復しました。

そのペースだと、車内で聴く曲もマンネリ化して・・・

学生の頃に往復していた時にかけていたような曲が入っているプレイリストを久しぶりにセレクトすると・・・

気が付いたらでかい声で歌っていました。

同じ夜の移動だから?なんとも不思議な感じになりました・・・

(フィールド・オブ・ドリームズの夜に街を歩くと昔になっていたシーンのような・・・)

その日は、父とそういう話はしていなかったのですが・・・

「お前がオレのようにやろうなんて、無理だ・・・」

(⇒お前らしくやればいい・・・)

 

私は、父がしてくれたように子供たちにしていない・・・

でも、実家に積んである本の山・・・それにスーパー記憶術・・・敵うわけはないのです。それでも、ネットをフラフラしてなんとか・・・でも、付け焼刃では人の心には入らない・・・

家族で帰省すると、うちの子供たちに父がいつも話す、

「スイカは皮が一番うまいのにもったいない・・・」

これを聞くと、正直またか・・・と私はなるのですが、子供たちは私が思うほど気にしていなかったのです。

(父のサービス精神が子供達には通じていた?)

父の話しをしたくれた方は皆、話していて楽しかったと言ってくれます。

すっと入らなかったのは私だけだった・・・

 

その後もいろいろな事がこれまでにはないような順序、タイミングでつながることが・・・

(あのシーンがまだ続いているのか・・・)

その後、新型コロナの事態は悪くなる一方でしたが、まだ思い出のものや花で棺を一杯にして送ることができました。

 

コメント

  1. Mashi より:

    私の父も他界しています。もう17年くらいになるでしょうか。
    私は父と進学のことでもめてしまい、最後までわだかまりが残ってしまいました。
    父も言葉が少ない人だったので、なんとなく時間が過ぎてしまいました。
    今思うと、感謝しているし、生きている間はもっと甘えておけばよかったのかも知れません。

    今、この時期になっては葬儀もままならず、家族を最後まで見守って頂いてたんですねと
    素直に思えました。ご冥福をお祈り申し上げます。

    • tanac より:

      Mashiさん、ありがとうございます。
      「もっと甘えておけば・・・」
      分かります・・・
      自分は第一子長男で、なんか構えてしまうのでしょうか・・・

      少し前だったので、まだ普通に送ることができました。
      志村けんの、入院してから顔も見れずに次に会った時にはお骨・・・お兄様の、
      (重かった、まだ温かい・・・)という言葉には胸をかきむしられました。

      もし、軽快して戻れたとしても、今のこの状況はきつかったのでは・・・と、様々の判断で間違いはなかった父らしい・・・と思わせてもらっております。

  2. […] そのつながりは、緊急事態宣言下でした。 […]

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